ネクタイを締めて、結び目の形を整える。ふと目線を上げた鏡の向こう、目が合った自分の顔は少し緊張しているのか柔らか味が足りなかった。
 衿の先を引っ張りながら、にっと頬を緩めて笑ってみた。持ち上げた頬はまだ硬さが残る。
 頑張れ、と小声で呟いて、金色の前髪を掻き上げた――向かい合う自分の顔は強張ってはいるが怯んではいない。
 コンコンとドアをノックする音がした。背中に届いた音に振り返りもせず、姿見を見ながら身なりを整え続けているヒカルは返事だけを返す。
「入っていいよ」
 その言葉を合図に扉は静かに開き、誰かが部屋に入ってくる。気配がヒカルに近づいて、やがてヒカルは鏡越しに自分と同じくスーツを着込んだアキラと対面した。
「もう着替え終わってるじゃないか。一体何に時間をかけてるんだ」
 鏡の中のアキラは呆れたように腰に手を当てていた。
 ヒカルの手は相変わらずネクタイを弄っていたが、目だけは鏡に映るアキラに向けられている。
 アキラはかっちりとしたグレイのスーツに身を包み、涼やかで誠実そうな印象を更に強めている。珍しく髪もサイドを撫で付けて耳が覗き、意外に気合が入っているようだ。
 ヒカルはネクタイから手を離すと、くるりと振り返ってアキラと向き合った。――うん、やっぱり直に見るほうがいい男だ――恥ずかしげもなくそんなことを考える自分に少し苦笑いして。
 アキラもヒカルを頭から爪先まで軽く眺め下ろし、肩にほこりでもついていたのか手を伸ばしてパンパンと払うと、「顔が硬いぞ」と微笑した。
 ヒカルは軽く口唇を尖らせて、「お前は余裕だな」と毒づいた。
「そんなことはない。ボクだって緊張している」
「その割には涼しい面しやがって。あー、また緊張してきた。なあ、やっぱり順番逆にしねえ?」
「もう無理だ。それぞれ両親に時間は伝えてあるだろう」
「そうなんだけどさ、ああもうすげえ怖くなってきた」
 がしがしと頭を掻いたヒカルにアキラは優しい微笑みを向けて、そっとその髪に手を伸ばしてくる。
 ちょいちょいと乱れたヒカルの髪を整えながら、少し伏せつつも穏やかな眼差しはそのままに、
「ボクも怖い」
 囁くように告げた。
 ヒカルはアキラに髪を弄られたまま、静かでありながらやはり何処か張り詰めている目と向かい合い、ふっと肩の力を抜く。
 アキラの手が止まる。髪に触れていた手がするりと落ち、見詰め合った二人は改めて互いの姿を揺れる瞳に映した。
 しっとり表面を濡らした黒い輝きが真っ直ぐに相手を捉えている。渾々と決意を湛え、きっぱりとした優しい眼差しは相手を包み込む強さを備えるまでに成長した。
 初めて出逢った時は今の肩ほどにも身長が届かなかった頃だっただろうか。
 我武者羅な少年時代から確実に時は過ぎて、ライバルと認め合った相手と気付けば差し向かいで酒を飲める年になった。
 成長した身体には感情に比例した欲望が溜まることを思い知った。自棄糞に伸ばした腕に応えがあって、驚きながらも受け入れ合った初めての夜から更に月日は流れて。
 こういう時にはスーツで行くものだ、と言い出したのはアキラだった。礼を弁える彼らしく、ヒカルとしては余計に緊張しそうであまり気乗りはしなかったが、ふざけていると受け取られる訳にはいかないのでその案を承諾した。
 それぞれの親に予定を取り付けてからの二週間、期日が近づくにつれて面白いほどに緊張が高まっていく。さすがに当日である今日はピークを迎えていて、朝一番に覗いた鏡には昨夜すぐに寝付けなかった疲労がそのまま映し出されており、これはいけないと念入りに顔を洗った。
 こうして向かい合ったアキラの顔は凉しげに見えているが、服装や髪への気合の入り方からして彼もきっと心穏やかではないのだろう。それを表に出さないようにしている真っ直ぐな目がとても好きだとヒカルは思った。
 アキラはふっと微笑み、左手首の時計をちらと覗く。
「そろそろ出ようか?」
「――うん」
 ヒカルはふうっと大きく息をついて、一度閉じた目をしっかりと開く。ハンガーにかかったままのスーツのジャケットを取ると、腕を通してぴしっと前を合わせた。
 ダークブルーの静かな決心。このスーツを来たのは二回だけ、初めて海を越えた外国の土地での国際棋戦と、――本因坊戦挑戦手合いの最終局。
 勝負強さはお墨付きだと、ボタンをとめながら前を向く。
 玄関で靴を履きながら、互いの格好の最終チェック。汚れや解れがないか、ネクタイが曲がっていないか、どのみちこれから車に乗るのだから下りた後に同じことを繰り返すのだとしても。
 ヒカルはまじまじと広げた自分の手のひらを眺める。広げた指先は僅かに震えていて、思わず目を細めた。
「俺、塔矢先生に殴られたりしてなあ」
「それはボクの台詞だよ。キミのお父さん、アメフトやってたんだろう?」
「大学までバリバリ」
「吹き飛ばされたら拾いに来てくれよ」
 真顔でそんなことを言うアキラに、ヒカルは少し笑った。アキラもヒカルの口唇の隙間に白い歯が覗いたことに安堵したのか、ふわっと微笑した。
 どちらともなく、手を伸ばす。絡んだ指先が少し遊んだ後、きゅっと握り締めた相手の手のひらは同じように汗ばんで、熱かった。
 繋いだこの手を離さないように。
 道は遠く、夢は高く――
 途中で枝分かれした運命の道筋が、たとえ同じ方向に伸びていなかったとしても。
 大きく輝くあの夢の輪郭が、それぞれ違う形に見えていたとしても。
 目指す向きからこの目を逸らさずに。歩き続け、時々は後ろを振り返ってもいい、突き進むその向こうにもしも求めていたものを見つけられたら――その時隣にいるのはきっと、今この手を繋いでいる人。
「行こうか」
 アキラが空いた右手をドアノブへ伸ばす。
「ああ」
 ヒカルはアキラの左手をきつく握り締めた。
 アキラが触れたドアノブを回す寸前、無言の合図があったように、二人の顔が相手を振り向く。目を閉じたヒカルと、ヒカルの右手を強く引いたアキラ。
 噛み付くようなキスをした。


 開いたドアの向こうからは光が溢れ込んできた。
 光に向かって一歩足を踏み出せば、繋いだこの手を離さなければならない。
 それを不安だと思わない。――大丈夫、行けるよ。見えなくてもずっと繋がっている。温もりも力強さも、全部この胸に刻まれているから。
 絡まった糸が解けるようにするりと離れた指先はもう震えてはいない。
 さあ、大切な人たちに、胸を張って愛する人を逢わせよう。


 空はよく晴れていた。
 見上げた雲の向こう、まずは誰よりも先にと胸の中でアキラの名前をいっぱいに叫び、太陽の祝福を受けたヒカルは光を弾く笑顔で応えた。






アキヒカサイトWIDE OPEN SPACE のアオバアキラ様《アキヒカコンテンツ1周年記念SS》フリー配布です。
そちらを喜び勇んでをガッツリ頂いて参りました。
アオバアキラさん、アキヒカコンテンツ1周年おめでとうございます。
毎日午前零時キッチリに更新されるアオバさんちのSSと日記!それはもう見事☆としか言う事の出来ない神業で・・・・・(ため息)
あれほどの数のSSがありましたのでもっと長くやってらっしゃるのかと思っておりましたが、まだ1年だったんですね?
そしてこの『光』
読み始めて「ああ、これは・・・そうなのね?」と思いました。
「互いの家に挨拶(カミングアウト)に行く」・・・・・・・・これがどれだけのプレッシャーを強いられるものなのか。
読んでいるこちらの胸がギュッと痛むくらいなヒカルやアキラの見事な描写でした。
そしてラストの描写には言葉もありません。
まるで動いている二人が目の前にいるかのようで・・・・・。
これから色んな難問がこの二人には待ち構えていると思いますが、まずは第一関門。
でもこんな迷いの無い二人に要らぬ言葉を挟める人がいるでしょうか?
きっと大丈夫!頑張れ!
読み終えてからそっと心の中でエールを送りました。(ちょっぴり涙出ちゃったけど))


アオバさん。このような素敵なSSをありがとうございました。
またこれからも日参させてくださいませ。

                                                            2007年6月25日