別れ・番外編
《神谷君の暑い一日》





「お願いします」

『お願いします』

静かな部屋の中に碁石を打ち付ける音だけが響く。
あれこれ散々粘ったが、どうしても打開策が見出せない。

この形・・・・・

そうだ、あの手をやってみよう。
この間の富士通杯でみた棋譜の中にあった、あれだ。

パチリ

パチッ

よし、いいぞ!そしてここに打って・・・・あ!そうくるのか。

ふぅ・・・・やっぱり付け焼刃じゃだめだ、後が続かない。
どうしよう、まだ生き延びれるところがあるだろうか?
右隅はどうだ?
左下は・・・・・もうない。
中央はもう無理だ・・・・・・

・・・ない・・・・・


「ありません」

『ありがとうございました』


「へえー神谷君、随分と小粋な手を打つようになったんだねえ!一瞬見ててドキリとしたよ」

「芦原さん。あ、いえ・・・それはその」

『先日の富士通杯のあの一戦での進藤の一手だったね?確か?』

「そ、そうです・・・」

やっぱり塔矢先生は気付いてたんだ。


『ほら、ここのこの一手・・・・・ここまでは良かったんだよ。それからさっきのこの手もね
でも惜しいかな、その後に上手く繋げることが出来なかった。そこはね、ここに・・・こう打てば・・・ホラ、ね?・・・・・・・・・・・』

そこまで言って塔矢先生はふと手を止めて顔を盤面から上げた。
背筋を伸ばし、目を閉じてすぅ・・・と息を吸い込む。

「?」

『・・・・・進藤!』

「はっ・・はいっ!」

縁側から聞こえたこの声は・・・・

『さっきからそんなところでうろうろと!目障りだ!入るなら入る、用が無いのなら大人しく他の部屋に
行っててくれ!』


ぷぷぷぷぷっっ
クスクス・・・


それまで水を打ったように静かだった部屋に、研究生たちの押し殺した笑声がさざ波のように広がる。
そろそろと障子戸が開き、そこに現れたのは僕の父、進藤ヒカルだった。


『進藤!さっきからキミの足は丸見えだぞ。気が散って仕方が無かった。気になるのであれば最初から同席すればいいだろう?!』

「うん、ごめん塔矢。でもやっぱ恥ずかしいじゃん。その・・・親がしゃしゃり出るのってさ」

『部屋の前をうろうろする方がよっぽど恥ずかしいとは思わないのか?』


どっ!と笑いが研究生たちの間に沸き起こった。
ただ僕はもう恥ずかしくって顔を赤くして下を向いているのが精一杯だった。




信じられない!
こんな男が僕の親だなんて!



そしてもっと信じられないのは、そんな進藤ヒカルがそれでも本因坊でありその他色々なタイトルを塔矢先生と
取ったり取られたりのトップ棋士である、という事。
そして僕の師匠である塔矢アキラ先生とは恋人関係にあった。

まだ僕が物心つく前、すでに進藤ヒカルは母と離婚していた。
そして塔矢アキラとの恋人宣言。

母は僕が小学校に上がる前に再婚した。
相手はごく普通のサラリーマンだ。
でもよく休みの日には遊んでくれたし勉強も見てくれて、僕にとっての父親とは今現在の父がそれである。

小学校6年の時、囲碁の道に進みたいと言った僕に母は怒り猛反対した。
それは無理も無いと思う。
囲碁は母から色んなものを奪っていった元凶なのだから・・・・。
それをわかっていた僕は友達から勧められるまでは一切、囲碁というものに近づこうとはしなかった。
母などはTVをつけて囲碁番組が映ろうものならサッとチャンネルを変えたり、ひどい時は消してしまうこともあるくらいだった。
囲碁というものに対しての母の葛藤は相当なものがあったのではないかと思う。
母がそんなだから、僕が囲碁を遠ざけていたのは無理も無かった。

始めは暇潰し程度の気持ちで始めた囲碁だったけど、実際にやってみると奥が深くて面白い。
そのうち勧めてくれた友人を追い越し、気がついたら子供だてらに碁会所にまで足を運ぶようになっていた。
周りに相手になるような実力者が居なかったからだ。




母に反対されると僕はムキになって反抗した。
塾をサボってみたりハンストしてみたり・・・・・
時には泣かれてしまったりもしたので、自分はそこまでして母の嫌がる道に進んでいいものだろうか?と
思い悩み始めたとき、助け舟を出してくれたのが今の父だった。


「オレはなんの取り得も才能も無い。多分一生このままサラリーマンで終わると思う。
だけどお前には本当の父親譲りの素晴らしい才能がある。それはお母さんもよくわかっているんだよ。
でもな、ただちょっと意地になってるだけなんだと思うぞ。お父さんからもお母さんに言ってみるけど、決して諦めるなよお前はまだ若いんだから人生のやり直しなんかいくらでもきく。自分のやりたいようにやってみなさい」


それまで何も言わなかった父だったけど、僕が煮詰まってしまっている時こう静かに言って僕の背中を押してくれた。
それから、僕は母に対して反抗ばかりしていた態度を改め自分の心の内を母につたないながらも説明した。
そして母もそんな僕の態度の豹変ぶりに決意の固さを見て諦めたんだと思う。

今ではあそこまで反対してくれた母にも、そして後押ししてくれた父にもとても感謝している。
アッサリと認められていたらちょっとした事で挫けそうになった時、果たして自分にそこに留まるだけの気力が続くかどうか自信は無い。


「意地でもプロになってやる!」

これが当面の僕の目標だ。

塔矢門下に入って早半年。
僕は中学生になった。
僕に囲碁の楽しさを教えてくれた友人は学校の囲碁部に入り、僕はプロを目指す。
小学校生活は・・・・楽しいものではなかった。
「あの進藤ヒカルの子供」だというだけでからかわれた事もあり、僕はどちらかと言うとクラスの中で孤立していた。

悔しかった。
どうして僕がここまで言われなければならない?!
囲碁なんて絶対にやるもんか!って思った。

そんな時、僕に囲碁を敢えて勧めてくれた友人。
始めは何故よりによってこの僕に?ケンカを売ってるのか?と思った。
けど何度断ってもしつこく誘ってくるのに半ばウンザリして「一度だけなら」とやってみたら・・・・・
自分の中で血が騒ぐのを感じた。
それを言葉でどう表現していいのかわからないけど、なぜこれを今まで遠ざけていたんだろう?!と深く後悔
する程にそれは衝撃的な出会いだった。
それからは勧めてくれた友人を毎日の様に誘い、相手をしてもらいメキメキと上達していった。
本当に毎日が楽しくてしょうがなかった。



そして今僕はあれほど憎んでいた父、進藤ヒカルと同じ世界に身を置く事になったのだ。

進藤ヒカル・・・・
もう30を越えたというのに、未だにちゃらちゃらとしている現本因坊。
着ている服だってタイトル戦以外の時なんか、いい歳をしてそこら辺の若者が着ているような砕けたファッションで手合いに臨んでたりする。
言葉遣いなんかも未だに棋院の人から注意を受けているみたいだし・・・・・・
(これは塔矢先生がため息をつきながら言ってたことだ)

それに比べ塔矢先生は進藤ヒカルとは正反対だ。
静かな物腰。
いつもどんな時でもスーツを着用。(着る物に無頓着だから・・という噂もあるが定かではない)
韓国語や中国語を自在に操り、海外戦の時などは堂々と海外の選手たちと言葉のコミュニケーション
をとっている。
それに比べ進藤ヒカルはサッパリ外国語を覚える気はないらしい。


『進藤本因坊は韓国語とかはどうなんですか?これから海外戦も増えますし、少しはマスターした方がいいのでは?』

「ええーーー?面倒臭いじゃんーー、オレはいいよー。だって塔矢が喋れんだもん、それでいいじゃん」

ある日TVをつけたらインタビューでこう語っていた父、進藤ヒカル。
あなたには向上心というものは無いんですか?と心の底から思った。
そしてこんなにも正反対なふたりが惹かれあっている、というのがどうにも僕には未だに理解が出来ない。
いや、理解したくも無いのだが・・・・・・。




そして今僕の傍らに進藤ヒカルがいた。

「ここ、なかなかいい手じゃん。どこかで見た石の運びだけど・・・・」

と言いながら僕の顔を覗き込んでニヤリとする。


『ここからこう繋ぐと良かったんだよ、僕ならそうする・・・ほら、白が生きて来ただろう?』

「ちがうよっ!塔矢。オレだったらこう出切る。そうすれば白はなすすべがないだろ?!」

『フン、その後僕だったらここにこう・・・ほうり込んで・・・黒はそれでここを抜いてくるんだろうが、ここに白をあてて・・・・』

「うわっ!オマエそれ派手だよ!そんならオレはこう・・・ここにコスんでだなっっ!」

『はぁ?バカじゃないのかっ?キミはっっ!』

「なにおーーー!バカってゆった!知ってるか?バカって言った方がバカなんだぞー!」

『そんなの知るかっ!』


ふたりはギャーギャーと騒ぎ始めた。


「おのれらは小学生かっ?!」


と僕は思わず突っ込みを入れそうになった位に、すでにそれはバカらしくも情けない低レベルな子供のケンカへと発展していた。
そして白熱した二人はまだ顔をつき合わせてにらみ合っている。


――やれやれ・・・・・また始まったよ――


周りの研究生たちは一様に顔を見合わせて笑っている。


「いつものことなのかっ?!」


信じられない・・・・いつもはあんなに冷静沈着な塔矢先生が!


「ほらほら、アキラも進藤くんもそろそろいい加減にしとかないと神谷君が目をむいて驚いてるぞ」


見かねた芦原さんが子供のケンカに終止符を打つべく割って入った。


『はっ、僕としたことが!すまなかった神谷君。キミとの検討をほったらかしにしてしまって・・・』

「全くだ塔矢、検討を放ってはイカンな」

『進藤っ!キミが言うか?キミがっ?!』

「はいはい・・・そこで終わり。みんなキミたちを見てぐったり来てるよ?ここらで休憩にしようか?」



はあ・・・・なんと言うか・・・・。
これがかたや本因坊でかたや名人で棋聖でもある二人だとは?!
僕は大きく肩で息をついた。


「疲れちゃった?神谷君?」

「芦原さん。い・・・いえ。ただ・・あの・・ビックリしてしまって・・・・。いつもああなんですか?」

「ああ、あのふたりね。この頃進藤君はキミに遠慮してこの研究会に足を運ぶことが無かったから知らなかったみたいだけど昔っからあの二人はああだったんだよ」


にこやかに説明してくれる芦原さん。
常にリーグ戦入りしていて、こんな研究会に足を運んでいるヒマも無いくらいだと思うのに塔矢行洋夫妻が拠点を海外に移してしまってからは手伝いと称しては何かと足を運んくれている。
勝手知ったるなんとかで、いつもお茶やお茶菓子を手際よく用意してくれ研究会ではお兄さんのようなお母さんのような存在の人だ。
そして芦原さんの一声で一旦休憩、ということになった。


「今のうちにトイレに行っておこう」


途中台所の前に通りかかったところで、僕はふと足を止めた。
中から声がする。
つい聞くとはなしに僕は耳をそばだててしまった。
中から聞こえてきた声の主が塔矢先生と進藤ヒカルの声だったからだ。


「だからさぁ・・・・・もういい加減に機嫌直せよぉ〜アキラ〜」

『僕は別に怒ってなどいない!』

「充分怒ってんじゃんー」

『進藤、キミは確か今日は指導碁の予定が入っているんじゃなかったのか?』

「ヒ・カ・ル・だろ?んん〜〜もう〜二人っきりん時はいいじゃんかぁ〜、相変わらず固いんだからなーオマエはぁ」

『二人っきりじゃないだろ?研究会のメンバーがいる。どこで聞かれるかわからないじゃないか!』

「そんなん今更じゃん?」


僕は好奇心に勝てず、そーーっと戸の隙間から覗いてしまった。
キッチンには流しで洗い物をしている塔矢先生の後ろから、腕を前に回して甘える様に引っ付いている進藤ヒカルがいた。

―― くそ!見るんじゃなかった!―


『で、指導碁は何時からなんだ?進藤』

「えーーっと4時から、広尾だ」

『何?ここから30分はかかるじゃないか?!こんな所でグズグズしている場合じゃないだろ?!しかもキミ
その服装で行くのかっ?!』

「うん・・・あのじいちゃんの時はいっつもこんなんだもん。じいちゃんもいいよって言ってくれたし・・・オレさ堅っ苦しいのあんま好きじゃないのよ。オマエも知ってっと思うけど」

『ふぅ・・・・もう何も言わないよ。ただし遅刻だけはするなよ。時間ギリギリで行っていい指導が出来るとも思えないし』

「はいはい、わかりました〜♪んじゃこっち向いてアキラ」

『は?・・・・・・んっ・・・んんーーーっ・・・・・・こらっ進・・っ・・ぁ・・・・・・・・んっ・・』

「だめ・・・・・・ちゃんと・・・・・・・・・ん・・・・」

『・・・・っ・・・・・・・』


中から衣擦れの音と、荒い息遣いが聞こえてきて僕は焦った。


―キスしてる?あの二人―ー


いつもはキリっとしている塔矢先生があんな・・・あんな声を出すんだ。
僕は顔が赤らむのを抑えられなかった。
早くこの場を離れなくちゃ、と思いつつ僕の体は廊下の壁に張り付いたまま離れない。
マズイ!


「ごちそーさん!オマエから行ってらっしゃいのキスも貰えたし今日はイイ指導碁が出来そう♪」

『バカなこと言ってないでさっさと行って来いっ!』

「はいはいは〜いっと♪」


中から出てきた進藤ヒカルとバッチリと目が合ってしまった。


「何?オマエ今の聞いてた?」


声を心持ちひそめて話し掛けてきた。
僕はブンブンと首を振って「トイレに行こうとしただけだから」と答えた。


「ばぁ〜か。オマエの足、すりガラスから丸見えだったっつーの。」


ニヤリと笑いながら僕の額を拳でコツンと突く。


「し・・・知ってて?!」


僕は絶句した。
僕が居ると知っててコイツはあんなことしたのか?!
信じられない!


「や〜オレたちラブラブだからさぁ・・・・えへ♪でも、これから覗く時はちゃんとわからないように覗けよ、な?」

「そっそんなこと僕はっ!」

「あーーでも何だなぁ・・・・足が丸見えってあたり・・・オレと同じ事してんなオマエ。親子だなあ・・・・・・・」

「一緒にするなっ!」


何か遠い目をしてしみじみと語っている進藤ヒカルにムカついて僕は即座に言い返した。


「あはははーーートイレ行くんだろ?トイレはあっちだぞ。迷うなよ〜」



手をひらひらと振りながら彼は出て行った。





僕は一気に脱力した。
手の平はじっとりと汗をかいてしまっている。
そしてさっき見た光景と、進藤ヒカルとのやり取りの一つひとつが頭の中をグルグルと回っていた。


はあ・・・・・・・・きっと僕は一生あのバカな父には勝てない。


そう確信した夏の終わりだった・・・・・・。



2006年2月17日