「ボクは一体何をやっているんだ。」
進藤の車から半ば逃げるように飛び出して来たボクは真っすぐ部屋には戻らずマンションの
エントランスのベンチに腰を降ろして改めて自分の姿を眺めた。
「ひどい格好だな…」
ネクタイは無くシャツの前もろくすっぽ留めてないボクはどう見ても尋常な格好ではなかった。
「早く部屋に戻らなくちゃ・・・」
立ち上がろうとしても今になってヒザが、がくがく震えてきてしまって情けない事に暫らくはまともに
歩けそうにない。
「進藤・・・・・・」
そっと呟いて自分の唇に手をあてる。
さっきまでこの唇は進藤と熱く深く繋がっていた。
彼の舌がボクの口内を動き回りボクの舌に絡み付いてきて・・・・・目が回りそうだった。
息が詰まりそうだった。
あんなにキスが気持ちのいいものだったなんて知らなかった。
好きな人と交わすキスだからこそあんなに感じたんだと思うとそれだけで涙が溢れそうに
なってくる。
「進藤・・・・・ボクもキミが・・・・」
壁に頭をもたれかけ自分の腕をぎゅっと抱きしめる。
一度愛する人の温もり知ってしまった自分の身体は、また彼の温もりを求めている。
彼の言葉を求めている・・・・。
どうしようもないほどに。
ボクが一番望んでいた言葉を囁いてくれた彼。
嬉しかった。
言葉が出なかった。
あまりの喜びに身体が震えた。
どんな風に彼が耳元で熱く囁いたか、彼の大きな手がどんな風にボクを熱くしていったか・・・。
首筋や胸元を何度も行き交う唇にボクは溺れて、彼がくれる激しい愛撫に我を忘れた。
そして、彼は切なそうな顔でボクを上から見下ろして何度も言ってくれた。
「好きだ」・・・・・と。
信じられなかった。
一時期、もしかしたら彼もボクのことを・・・・なんて都合のいい事を考えたこともあった。
次々と彼女を替えていく進藤に「それはボクへのあてつけなんじゃあ」なんて考えたこともあった。
そんな彼を見ているのが辛くて、寂しくてボクは夜の街にひとり繰り出してお酒を浴びるほど飲んだり
見知らぬ女性と一夜限りの関係を持ったりした。
しかし今になってみれば、一体自分は何て馬鹿な事をやってきたんだろうか?
という深い後悔しかない。
あまりにも考え無しに過ごしてきた過去が今はただ消し去りたいというどうでもいいものになっていく。
「帰ろう」
のろのろと重い身体をなんとか立ち上がらせ部屋へと向かう
シャワーを浴びようと服を脱いだ洗面所の鏡の中に、首筋や胸元にくっきりとさっきの痕が紅くついた自分が
映っていた。
「あれは夢なんかじゃなかった・・・・・」
首筋をそっと押さえる。
進藤からあれだけ待ち望んだ言葉を貰ったにも関わらず、ボクは逃げてきてしまった。
今の自分には彼の言葉に応えるだけの資格がない。
・・・・・そう、彼女のことを・・・・・。
彼女にボクは全てを話していた。
あれはお見合いの日・・・・・
お見合いと言っても「両家の両親が揃って」などという堅苦しいものではなく、今回間に立って
この話を持ってきた搭矢後援会の人が彼女、麻子さんを連れてきて三人で軽くお茶をしただけだった。
そしてその後ボクら二人で食事へと出かけた。
どうやら後援会の人と彼女のお父上は長い付き合いであり、また話の流れの中でつい
「搭矢アキラ君を紹介しましょうか?」となったらしい。
囲碁もたしなみ、また娘さんも少しは囲碁の腕に覚えがあるといったことからこういう流れになってしまったらしく、
初めはボクも固くお断りしたのだったがここで断られたら自分の面子が・・・とか泣きつかれて・・・・・。
別に他人の面子などどうでもよかったのだが、丁度その頃進藤が、またハデな女性関係の話題を振り撒いていた
事もあって半ばヤケ気味で受けてしまったのだった。
「麻子さん、囲碁やってらっしゃるそうですね?」
「ええ、始めは父の相手を訳判らずさせられていたんですがそのうち面白くなってきてしまって、仕舞いには
父を追い越してしまいましたわ」
「碁は奥が深いですから、始めると楽しいですよね」
「ええ・・ほんとに。まさかこの私が日曜の朝から囲碁番組を観る様になるだなんて思いもしませんでした」
そういうと彼女は楽しそうに笑った。
明るい人だ。
「先日の放送に搭矢さん、出てらっしゃいましたよね?私ドキドキして拝見しましたのよ」
「ええ?!あれをご覧になったんですか?恥ずかしいなあ。テレビは何度出てもいまだに慣れなくって
・・・正直苦手です」
「そんなことないです。とても分かり易い解説でした。搭矢さんは落ち着いていらしたから私と同い年と
伺った時は驚いたんですよ、私」
女性と、しかも初対面にも関わらず人とこんなに話が弾むのは初めてだった。
「明るくて、でもちょっとおっとりしているところなどは母に似ているかもしれない」
などと考えていると彼女がいきなりテーブルの上に色紙を出した。
「は?」
「ご・・・ごめんなさいね。うちの父は搭矢名人の大ファンなんです。
でね、今日のことも実は私のことよりも自分の事のほうが先決みたいで、どうしてもコレを持って行って
ぜひとも一筆書いてもらってきてくれ・・・と。す・・済みません、恥ずかしい父で///////」
というと顔を真っ赤にして下を向いてしまった。
「父のファンなんですか?お父様は。はい、わかりました。今父は台湾に行ってますのでお渡し出来るのは
ちょっと先になりますけどそれでもよろしいですか?」
「ありがとうございます!あの・・・アキラさんの目の前で父は名人のファンとか言ってしまって私ったら
無神経・・・って言うか初対面なのに馴れ馴れしく下のお名前呼んじゃってて済みませんッ」
「あっははは・・・・面白い方ですね貴女は。いえ・・・気になさらないで下さい・・・ボクはいまだに囲碁雑誌
では「搭矢(ア)」ですから」
「搭矢(ア)ですか?・・・面白い。アキラさんってば」
そう言うとまた彼女は楽しそうに笑った。
こんなに明るい人とならきっと楽しい家庭が築けるんじゃないかとふと思う。
だけど…
「麻子さん、実は今日お会いしておいてなんなんですが、まだボクは当分結婚する気はないんです。
済みません」
「もしかしてアキラさんには好きな方がいらっしゃる・・・とか?」
「えっ?い、いやそんなことじゃなくって今はまだまだ自分の事で精一杯で、とても結婚なんて
まだ考えられないんです」
「塔矢さんは誠実な方なんですのね。普通断るなら人を通して言いますよね。言いづらいですもの、
本人に面と向かって言うなんて。はっきり言って下さってありがとうございます。えっと、じゃあ私も正直に
言いますわね。・・・実は私今お付き合いしてる方がいますの」
「え?!」
ボクは一瞬固まってしまったらしい。
そんなボクの様子を見て、また彼女はくすくすと笑った。
「ごめんなさいね。お付き合いしていると言ってもあまり誉められたものではないんですけど…それに
一度お見合いをしておけば、また当分父からあれこれとうるさく言われることもないかなって」
と、さばさばと語る彼女。
結局その日は食事をして彼女を家まで送り、今回の話はお互いにまだ結婚などは考えてはいないので
またご縁が会ったら・・・・ということに落ち着いたのだった。
そしてもう会う事もないだろうと思っていた頃、彼女がボクの碁会所にやってきた。
うちの碁会所で週一で開いている囲碁教室に彼女は生徒としてやってきたのだった。
「麻子さん?」
「来てしまいました、よろしくお願いします」
彼女はなかなか筋が良かった。明るい性格のせいだろうか。あっという間に教室の生徒さんたちと打ち解けて
碁も少しずつ上達していった。
そんなある日・・・・・・
教室が終わって片付けをしているボクの近くに彼女がやってきた。
「搭矢先生、今日はありがとうございました。あの・・・この後お時間空いていますでしょうか?」
「特に用事はありませんが何か?」
「実はご相談に乗っていただきたいことがあるんです」
「ボクなんかが相談に乗れることといったら碁のことくらいですよ」
「・・・・話を聞いていただけるだけでいいんですの。誰かに聞いてもらえればすっきりしますから」
「わかりました、話を聞くくらいでしたらボクにでも出来そうです。どこか行きたいところはありますか?
車を回します」
「では・・・ここから近いところなんですけど、夜景の綺麗なお店がありまして・・・そこでいいでしょうか?」
「わかりました、ではそこへ行きましょう」
・・・指定されたところは都内のホテルだった。
(これはまずいんじゃ?)と思ったけどあまりこちらが意識するのもなんだと思って、取り合えずは
そこの駐車場に入る。
「食事するだけだし」
そう自分に言い聞かせつつホテルの上階にあるレストランへ入って彼女と食事をした。
なるほど・・・・・・階数が上なだけあって窓からの眺めが素晴らしく綺麗だ。
彼女にはワインを頼み、ボクはワインベースのノンアルコールカクテルを頼む。
アンティパストから始まったイタリアン料理は種類もボリュームもあって、普段ボクはそんなに
食べないんだけど 教室のことやお互いの仕事の話など笑いを交えながらの彼女との会話につられていたら
するすると入ってしまった。
そしてデザートも済み最後のコーヒーを飲んでいると、彼女がぽつりと呟いた。
「搭矢先生ってやっぱり優しい。今日はいきなりのお誘いだったのにイヤな顔ひとつしないで私なんかに
付き合ってくださって」
そして彼女はぽつぽつと今自分が付き合っているという人との事を話し始めた。
その人は同じ会社で働いてる5つ年上の人で、結婚して奥さんがいるということだった。
・・・・・つまり世で言うところの不倫というやつだ。
「今日は・・・ね、あの人の結婚記念日で、多分・・・・このホテルに奥さんと来ているはずなんです。
ここで式を挙げてから、毎年記念日にはここに来て食事して泊まっていくんですって・・・・・・」
そう言うと彼女は窓の外をじっと見詰める・・・・。
「バカみたい、なんでこんな事しているのかしら?ここに来てあの人を見つけたってなんにもならないのに!」
コーヒーカップを掴む彼女の手が微かに震えて、カップが音を立てていた。
「苦しい恋をしているんですね・・・。でも普段の貴女からは微塵もそんな事を感じない。貴女は強いひとだ」
「そんな事言わないで下さい。私強くなんかないし・・・・それに今そんな事言われたら・・・
私、あなたに縋ってしまいそうです」
そう言うと彼女は涙を溜めた瞳でボクを見つめた。
「ボクも実は・・・・笑わないで下さいね。ちょっと辛い恋をしている最中なんです。もう想い続けて
何年になるんだろうか?だから麻子さんの事は人事とは思えなくて今のお話は身に染みました。
・・・・と、もうこんな時間だ。あんまり遅くなると御両親が心配されますよ。出ましょうか?」
会計を済ませてエレベーターにふたり乗り込む。
「帰りたくない・・・・」
「え?」
「搭矢さん、今日は私家に帰りたくないんです!」
そう言うと彼女はボクに抱きついて来た。
抱き締め返していいものか戸惑っていると、下から彼女が顔を見上げてくる。
辛そうな彼女の顔にボクは吸い寄せられる様に唇を重ねた・・・・・・。
それから、時折彼女の愚痴を食事をしながら聞いたり、時には身体を重ねるといった付き合いが始まったのだった。
そんな付き合いの中でボクは進藤への想いを彼女に打ち明けていた。
彼女の気安さからだったと思う。
ベッドの中でふとそういった話題になって彼女からボクの想い人を聞かれ、今更嘘をつく気にもなれずに
ボクは正直に全てを彼女に話した。
「アキラさんも辛かったんですね」
そう言って彼女はふわりとボクを抱きしめた。
正直彼女に心身ともに支えられてきたというところは大きい。
進藤と想いが繋がったからと言って
「それじゃあ今までの事は無かったことに」
なんて虫のいい事を言える訳は無かったが、ここはちゃんと話をしなくてはいけない。
そして翌日、ボクは彼女に殴られるのを覚悟で進藤のことを打ち明けた。
「良かった。」
「え?」
「アキラさんの想いが叶ったんですよね。それならもうこんな風に私たち会っちゃいけませんわ」
きっぱりとこちらを見つめて彼女はそう言い放った。
「それで進藤さんにはちゃんとお返事したんですか?」
「いえ・・・・それが・・・・ここまで来て今更なんですけど・・・・・・ボクはちゃんと進藤と向き合える自信が
ないんです。馬鹿みたいな話ですが」
「それは私とのことも原因の一つになっているんでしょうか?それにそんな自信無さ気なアキラさん
見たくないです、私。」
彼女はボクに向かってきっぱりと言い放った。
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