別れ・7(アキラside)


もう何もする気が起きない。


誰も居ないがらんとした家に戻り夕飯の支度でも、と思っても身体がどうにも動かなかった。

「何か食べなくては」

とは思うのだが、食欲がここ最近ぜんぜん無い。
先日のこと。
手合いが終わって立ち上がった時、貧血を起こしその場に崩れてしまった。
立ちくらみの酷いものみたいだったけど、眩暈と耳鳴りがしてしばらくその場を動く事が出来ず周りの皆さんに心配をかけてしまっていたたまれない気持ちになる。
たまたま棋院事務所にいてそれを聞きつけた緒方さんが「車で送る」と言って来た。
ただただヘタな心配をかけてしまって申し訳なく思い、何度も「大丈夫です」と言ってみたものの相当ボクの顔色は悪かったらしい。

「こんな状態のアキラ君をそのまま帰したら、留守にされてる塔矢先生に申し訳が立たない」

と言われ好意に甘えることにした。
帰る途中「少しでもいいから何か食べろ」と食事に連れていってくれたけど・・・・帰宅してから吐いてしまうという有様だった。

今日も、やはりとても食事など出来そうにもなかったので、買い置いておいたスポーツドリンクを流し込んで寝ることにする。そして風呂もそこそこに、電気を消して布団に潜り込んだ。

「静かだな・・・・・・・」

物音ひとつしない家の中。
両親は活動拠点を中国へ移した為、ここには自分しかいない。
生まれ育った自分の家をこんなにも広く冷たく感じた事は無かった。

今までは、眠る時かならず隣には彼がいて・・・・彼の体温や呼吸を感じながら眠りについていた。
それを失ってしまった今、あの当たり前だった日々がどれだけ貴重で幸福な時間だったのか改めて思い知らされる。
もう彼の腕の中で眠る事も、瞳を交わすこともないのだ。
あの腕も広い胸も瞳も、これからはボクの知らない人のものになる。
ただ女性に生まれたというだけで享受できる幸せ。
自分には到底太刀打ち出来ない部分に無性に腹が立って、心の底から湧き上がるどす黒い感情を止めることが出来ない。

この怒りを一体誰に向けたらいいのか・・・・・
自分の中にこんな醜い感情があっただなんて。

進藤のマンションから最後の荷物を引き上げてきた時、言いようの無い無力感に襲われてしばらく動けなかった。
「別れよう」
と彼に言った時の、自分でもぞっとするような冷たい声。
今思い出してもあの時の自分は自分では無かったような気がする。
現実感が無くただ事務的に発したその言葉。
あの時・・・

「こんな場面、女性だったら泣いてすがるんだろうな。
別れたくない・・・って」

などと頭の片隅で現状を客観的に見ている自分がいた。
今思い起こしても涙も出ない。
泣いて気が済むような生半可な想いではないからだ。
彼との付き合いが、世間から見て常識的・倫理的な部分から大きく外れている事について気になることはあった。
時折自分でもイヤになる位、ナーバスになってしまうこともよくあった。
つい勢い余って彼に当り散らしてしまった事もある。
けれどそれを進藤はいつも黙って受け止めてくれた。

「キミを失ったらボクは生きていけない」

情事の最中、熱に浮かされた様にボクが口走った言葉。
普段ならとても言えないようなその言葉を聞いた進藤は、一瞬泣きそうな顔になって「オレも」と言った。

ボクは相手を失うという事は、どちらかが死ぬということだと思ってた。
まさかそれがこんなに早く、別の形で訪れるとは思わなかった。
そして、生きてはいけないと思ったにも関わらずこうしてボクは生きている。
朝が来れば起きて棋院へ行き、何事も無かったような顔をして仕事をこなして。
こうして彼の居ない日常に慣れて行くんだろうか?
次から次へと胸の奥から湧き上がってくる負の感情に耐えられず、何度も何度も寝返りをうちその晩はなかなか寝付けなかった・・・・・。





朝が来て、やはり食欲が無いので栄養剤をスポーツドリンクで流し込んでから家を出る。
正直こんな体力の無い時に電車通勤もキツかったが、ヘタに車を運転して事故でも起こしたら大変だと電車で棋院へと向かう。
市ヶ谷の駅を出て、棋院前までの坂をのろのろと歩いていたら唐突に後ろから声を掛けられた。



                                             2005年10月15日

 

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