イベントそのものが何の問題もなく終わって控え室に戻ったところでそのあとの慰労会の話が参加者全員に告げられた夕飯を兼ねた簡単な慰労会――いわゆる一次会――は棋院の心付けで行われる。
特に用事のないものはみんな参加するらしくアキラも前々から決まっていた約束がない以上見逃してはもらえないだろうと思う。
それでも最後の足掻きをするようにさり気なく端に寄って人目に触れないようにする。
このまま誰も気が付かなければ素知らぬ顔をして帰ってしまおうと思っていたのだが、その動きを目ざとく見付けた緒方が意地の悪い笑みを浮かべながら近付いて来るのが見えて、ややうんざりしながらも努めて顔に出さないようにして兄弟子を迎えた。
「どうしたんだ?こんな隅の方に居て」
アキラがこういう付き合いが苦手で早く帰りたがっているのがわかっていて聞いてくる兄弟子の顔が憎らしく見えてくる程にアキラはいらついていた。
「アキラくんももちろん来るだろう?」
否、と言ってしまえればいいのだが、この兄弟子はどういうわけかアキラの予定をかなり正確に把握しているために振り切るのは難しい。
どうやって放してもらおうか考えていると緒方に手招きされたのかいつの間にか芦原まで来て
「アキラも来るんだ。久しぶりだな〜」
楽しみだという雰囲気を隠しもせずに言われては行きたくないのでとはとても言えない。
緒方の策略に填まったかたちで悔しいが、慰労会だけならと自分を慰めておとなしく行くことにした。
早めに抜ければ今日中にヒカルの部屋に行ける、そう思うことで睨み付けたい衝動をどうにか抑え不満などないような顔をして二人と話した。

慰労会では緒方に促され無理矢理緒方の隣に座らされる。
反対隣は緒方の指示で芦原が座る。
指示と言っても芦原自身も久し振りにアキラと話したかったようで
「どうだ?」
という言葉に嬉々として座っただけのことだったが、アキラにしてみれば逃げ場を無くされたかのようでうんざりしてしまう。
同門の笹木は人懐っこい芦原の隣だ。
端から見れば他の人に絡まれたり無遠慮な攻撃を受けないように守っているように思えることだろう。
そんな中、事務局員の
「今日はお疲れ様でした。ゆっくり食事なさってください」
の言葉で慰労会が始まる。
アキラの座らされた卓は未成年はいないようで初めから遠慮なく酒まで回されてしまい、年齢的に断り難くなってしまったアキラも仕方なしに口をつけた。
舌を湿らす程度に飲んで誤魔化そうとしたアキラだったが、隣にいる緒方はその様子に不満なようで飲め飲めとせっついてくる。
適当にあしらってはみたのだが全く飲まないというわけにもいかず、都合二杯分位は飲まされただろうか。
それでも、小さな頃から大人達に囲まれて、時に味見程度には飲まされていたから特に酔いが回るような事態にはならずに済んだのは幸いだった。

「お疲れ様でした」
慰労会の行われた店を出たところで最後まで残っていた人たちに深く頭を下げて挨拶をし、アキラは少しでも早くその場から離れヒカルの部屋に向かおうと踵を返す。
その肩を大きな手が後ろからがっしりと掴む。
慰労会の席で散々絡まれていた間にアキラの機嫌は下がっていたが、これにはとどめを刺されたようにうんざりとした。またか、と呆れながら溜息を一つ吐き、殊更ゆっくりと振り返る。
「なんですか?」
不機嫌なのを隠しもせずに問い掛けるアキラに酒がはいって上機嫌の緒方は気が付きもせず
「たまには俺の酒に付き合ってくれてもいいんじゃないか?」と言う。
アキラの機嫌が急降下したのを敏感に察知した芦原は緒方の後ろでオロオロと事態を見守っている。いつものように何も気が付かない振りをして間に入ってしまえばいのだが、零下にも下がろうというアキラとそれに全く気がつかず上機嫌な笑みを浮かべる緒方の間は明らかに温度の違う空気が渦巻いていて、いくらおっとりした芦原でもとても怖くて入れない。
諾の返事がもらえるまでは放さないといった強引な力に視線に抵抗しつつアキラは緒方の腕に手をかける。

「このところ仕事が忙しくて疲れているので帰って早く休みたいんです。すみませんが、この手を放してください」

氷のような冷たい声音に後で聞いていた芦原の表情が固まる。
周りでこの後どうする、と談笑していた人たちもその声の冷たさに皆ぴたりと口をつぐんだ。
不穏な気配に周りは固唾を飲んで見守るが、当の二人はまったく意に介せずかたや睨みかたや笑みを浮かべて見合っている。やがて、一人が諦めたように疲れた息を吐いた。
「わかりました。付き合いますよ。ただし、一件だけですからね」
酔った緒方には言うだけ無駄だと諦めて、それよりは飲みにいった先で早いペースで飲ませて早々に潰してしまうことに意識を切り替える。
問題は緒方が潰れた後に部屋まで送るような時間を浪費したくないことだ。
連れである以上放っておいて帰るなんてことはアキラの常識としてはしたくないし、店にも迷惑が掛かってしまう。
芦原にも来てもらってお願いしようかと考えたところに緒方の
「芦原、お前も来るんだぞ。」
という声が飛び込んできてアキラは助かったと思った。
わずかに困った顔を見せたものの、その後に緒方の言った『イキツケ』『オゴリ』という単語で嬉々として頷いた。


慰労会の会場から有無も言わさずタクシーに乗せられて連れてこられたのは誰でも知っているような高級ホテルでホテルのロビーからエレベーターで上へと向かう。
『イキツケ』の店は緒方にしては珍しく女性がつくような店ではなかった。
ホテルの最上階にあるバーで照明も程よく落とされていて大人ばかりが出入りする落ち着いた雰囲気の店だった。
そこに入ると誰の案内も請わず当たり前のようにカウンター奥に向かう。
自然すぎるその行動にアキラと葦原は呆気に取られたままただ後に続くしかない。カウンターについた途端、内にいたバーテンが笑顔でやってくる。
「緒方さん、こんばんは。今回は随分と久し振りでしたね」
「ああ、だいぶ棋戦が詰まっていたし、その間は呑むのを控えてたからな」
慣れたような口ぶりで掛けられた声に苦笑しながら緒方が答える。
親しげなその様子にアキラと芦原は顔を見合わせて
『一体どのくらいの頻度で来ているんだ?』
と目で会話をして呆れたような笑いを浮かべた。
芦原のほうはその中にも期待の色が含まれていたが、アキラのほうは呆れ返ったような色とうんざりした気配しかなく早く帰りたいのがありありとわかる露骨なものだった。
「今期の棋戦はなかなか調子がいいみたいですね」
笑顔で綴られる言葉に「まあな」となんでもないふりをして答える緒方だったが、内心嬉しくないはずがない。その証のようにわずかに目を細めてみせている。
「ところでお連れの二人は初めての方達ですね。どなたですか?」
問い掛けられて初めて気が付いたというように二人を見る。
その様にアキラは完全に酔っているなと頭を抱えたくなったが、酔っているならある意味好都合なのではないかということに気がつく。そのまま気分良く盛り上がってくれる程度に飲ませて、気分のいいうちに疑われないように抜けるようにしよう。
緒方の様子からそんなにも時間が掛からないだろうと踏んで
『緒方を気分良く酔わせる』ことだけを考えることにする。
緒方の勘のよさは興味のある対象に限って発揮される。というか興味のない相手は顔と名前が一致する程度にしか覚えていないというほうが正しいかもしれない。
酔っているとはいえその緒方に気が付かれては大変とアキラは気を引き締めた。
平日の為か店内はそれほど客も多くなくゆったりとした雰囲気になっている。
店内をざっと見渡して確かに緒方の好きそうな店だなと二人ともが感じた。

しばらくして「ごゆっくり」と言ってバーテンが去っていくとおもむろに緒方が酒をすすめはじめた。
小さな頃から門下に囲まれ、ちょっとしたおふざけでかなり薄く割ったお酒を飲まされていたアキラはいつの間にかお酒に対する耐性が出来ているのでちょっとやそっとでは酔わなくなっている。
すでに酔いがまわりはじめている緒方を酔い潰してしまうのはそれほど難しくないように思えた。
が、しばらくしてその考えが甘かったことを思い知る。
なぜか呑んでも呑んでも緒方が酔い潰れる様子がないのだ。
自分が酔い潰れるわけにはいかないとセーブして呑んでいるアキラと違って緒方はペースなんて気にもせず呑んでいるようなのに………。
どうしてなんだろうかと疑問に思いつつばれない程度にお酒を呑んで様子を窺う。
いつもより冗舌になっているのに顔色はいつもとまったく変わらない。
本当に酔っているのか、何ともいえなくなってきてタイミングよくさっきのバーテンが来て緒方とまた話をしているタイミングを見計らって芦原に問い掛けた。

「アキラは知らなかったっけ?そういえばアキラは緒方さんとは呑みに来るの初めてだったか〜」
のほほんと呟く芦原にアキラが先を促すように視線を送るとなんとも楽しそうな顔で説明を始めた。
「緒方さんってさー、あそこまで酔うのは早いんだよ。そのくせあそこから先はほとんど変わんなくてあの状態で平気で一晩呑み続けたりするんだ。ちょっと違うかもしれないけどウワバミみたいなもんなんだよ」
それって……。つまり――朝まで付き合わせられるってことなのか?
その言葉の意味することが瞬時にわかってくらりとめまいを覚えた。
さすがにそこまでなんて付き合えないし、付き合いたくない。
何気なく時計を見ればすでに12時を過ぎ1時も近くなっている。
アキラの口から知らず知らず溜息がこぼれた。

「アキラも疲れてるよねー。適当に手を抜くって出来ないから余計だろう?」
子供の頃から良く知っている芦原が僅かな表情の変化にすまなそうな顔をする。
「疲れてるんなら先に帰っていいよ。あそこまで気分が良くなっていれば先に帰っても後で文句言ったりしないから。特に荷物もないだろう?トイレに行くふりでもして帰っちゃっていいからね」
気遣わしげな言葉にアキラは小さく頷いてすっと席を立った。
緒方は新しく入ったらしい酒のことをバーテンに聞いていて芦原とアキラのことなど気にもしていないようだ。確かにこれならいなくなったところでたいした問題もないだろうと思えた。
芦原にそっと目配せで感謝の気持ちを伝え店を出ていく。
立ち位置からいってバーテンにはそれが見えていたはずだが表情ひとつ変えず瞬きと間違えそうな微かな目礼だけで、緒方にそうとわからないうちに店を後にエレベーターに乗ることが出来た。

ホテルの前に出ると有名ホテルだけあって当たり前のようにタクシーがいる。
その一つに近づくとアキラの姿を認めた運転手がドアを開けて乗り込むのを待った。
後部座席にするりと滑り込みヒカルの住むマンションを指定すると座席に背を凭せ掛け気だるげな溜息をつく。ラジオからだろうか、静かな曲が流れていて疲れきった気持ちに優しさをくれる。
疲れの残る顔に微かな笑みを浮かべてアキラは静かに目を閉じた。
滑るように走り出した車は振動もなく走り夜中の都内を走り抜けていく。
等間隔に並ぶ道路わきの街路灯からの光が車内に入り込み目を閉じるアキラの瞼の裏まで差し込んでくる。
無口な運転手はありがたく揺れの少ない車内は心地よい。

居心地のいい雰囲気に慰められていくようでアキラの表情は柔らかくなっていった。